manaou's note

後で読みたいと思うメモをノートに

中学のバスケ部

みなさん、こんにちは。

 

前回、あんまり振るわずにいて、スッキリしない状況でも「まぁ、こんなもんだ」とか「悪くはない」と思えるようになったことに触れました。まれにではありますが、「コントロールしたいっ!」「何とかしたい!」という欲望に囚われることがあります。人間なので、それは仕方ないと思っています。そして、性急に何かやってみた際、大体うまくいきません。

 

そんな時、私は自分の中学生時代を思い出します。バスケ部のキャプテンだった頃の思い出です。当時はとても生真面目な学生だったもので、それはもう懸命に練習をして、勝ちたいとか、上手くなりたいとか思って練習や試合で頑張っていたのです。

 

田舎の中学校での部活動ですので、今にして思えば、まぁ、そんなもんなんですが、皆さん、本当にやる気ありませんでした。何か部活に入らないといけない。たまたまバスケを選んだ。そんな感じです。そこに、勝つを第一目標にチーム運営をしようとしても、うまくいくはずがありません。

 

とはいえ、当時、まったくもって、そんなことには気づかず、ひたすら叱咤激励、練習メニューも厳しいモノで日々を過ごしてしまいました。人心が離れているのもひしひしと感じつつ。

 

3年生の最後の大会も、県大会に出場はしましたが、1回戦負けです。達成感も何もありません。ぼんやりと記憶に残っているのは、負けた後、チームメートの一人が「俺たち、よく頑張ったよね」的なことを、結構な達成感とともに話していたことです。彼のその言葉は嘘偽りが無い様子でした。

 

当然、その時はむっとして、「おいおい、お前全然やってねーじゃん」と怒っていましたが、時を置いて落ち着いて振り返ってみると、そこには味わい深い示唆がありました。そうです、その彼は「本心で、頑張った」が真実なんだと。勉強で頑張らないといけない、家のお手伝いが忙しい(彼はパン屋のせがれでした)、もしくは、過去の経験の中ではここまで鍛えられたことはなかったのかもしれません。彼の経験・環境の中で、できる頑張りの中で、ベストを尽くした。ただ、それが私の「ものさし」とは違うということだったのでしょう。

 

この「ものさし」が「くせもの」です。私がよいと思う「ものさし」で人を測って、その枠にはめようとすることがベストなのか?必ずしもそうではないのでしょう。大切なのはその彼の「ものさし」に少しだけストレッチした「ものさし」を当てて、その彼に「まだいけるよね」という目標を与えつつ、できたらほめてあげるような営みが必要だったのだと思います。まぁ、中学生でそれができたなら、神ですね。今なら、「ものさし」は私が起点ではなく、彼の起点であるべきだという事がそれなりに理解できますが。

 

先日、高校サッカー選手権で優勝した静岡学園のキャプテンは260名の部員を率いているそうです笑。もはや、カオスでしょう。きっと、彼ひとりではできなくて、いろんな仲間と分担をしているのでしょうね。うらやましい。

 

ちなみに、なぜこのことを思ったのかというと、今の職場の空気感も「中学校のバスケ部」に近いように感じたからです。「オレは一生懸命頑張っているんだ、みんなも頑張れ」的な雰囲気は出さないようにしようと心がけています。

 

とはいえ、冒頭にも書きましたが、頑張ろうと思って、頑張り感を出してしまう悪い癖もたまに現れてしまいます。まだまだ修行が必要だということでしょう笑