manaou's note

後で読みたいと思うメモをノートに

答え合わせの欲求

みなさん、こんにちは。

 

先日、賞与の原資の相談をしました。この相談そのものはどんな会社でもあるでしょう。社長が一存で決めている会社もあるでしょうし、役員が集まって相談をしているかもしれません。かくかくしかじかで前期に対してはこれくらいの比率にしようと議論をし、決定をしました。

 

さて、その後、親会社の方針が出たので、再度連絡が来ました。順番がおかしくないかい?と思っていたのですが、いろいろあって見直しになったようです。その内容が我々で議論をして決めた内容と似通っていました。

 

たまたま議論して至った結論と親会社から再度通達のあった方針が一致した、たったそれだけのことなのですが、起こった感情としては「答えが合った」「ホッとした」「よかった」でした。

 

帰り道、このことについて、振り返ったのですが、これはよくないことだと思いました。何故かというと、正解のないハズの事に対して、たまたま一致したので、ホッとするという、因果関係もなければ、まだ結果も出てない事に対して、まやかしの正解を見て安堵するような光景だからです。

 

そう言えば、経営企画時代にも、社長に「そうだよね」と言ってもらって、似たような感触を得た記憶があります。これでやれば必ずうまくいくという事は、ルールがきっちり定まっている業務以外にはないはずです。ですが、過去にそのような業務に従事していた方は、正解を欲しがり、部下にもこうすればうまくいくからこうしろと指示を出してしまいがちです。

 

以前、「正論」について取り上げましたが、アレも近い考え方のように思います。遡ると、学生時代の勉強・テスト・受験もそうでした。そこに答えがあって、いかにして早く正しい答えにたどり着くか、その力で優劣を競いました。

 

ただ、優劣は「テストの点数で高い点を取ること」ではなくて、「複雑な問題に対し、思考する能力を手に入れているかどうか」でしょう。

 

話を戻すと思考して、議論して、一定の結論に至れた。実行してみて、反応があり、それを集めて施策を評価して、次は改良する。この一連の活動が呼吸するように自然にできることの方が答えがあっているかよりも素晴らしい事でしょう。

 

とは言え、この「答えが合っている」ことの気持ちよさには抗い難いものがありますね。小学校以来、培われてきたこの感覚は厄介ですね。あ、子どもたちにはキチンと言い含めておかないといけませんね。